このお話は、以前に僕が別のブログで何回かに分けて書いていたものを加筆修正してまとめたものです。
僕の父は2018年の4月に亡くなりました。享年60歳。
実際に体験したこと、その時思ったことをありのままに綴っています。
発覚。いきなり山場。
2016年の春、母親から突然のLINE。
「父が入院することになった。病名は【心タンポナーデ】」
聞き慣れない病名だった。
調べてみても詳しいことはよく分からないが、心臓の病気であることは分かった。
そのLINEを読んだ時は、今度の休みに見舞いにいこうかな というぐらいに思っていた。
しかしその日の夜、
「父の容体が急変した。」とLINE。
「近所の病院では対応出来ないから、家からは程遠い大病院に搬送された。今夜が山かもしれないので、すぐに来てくれ。」
とのことで、その日の仕事を終えて終電で奈良の南の方の病院へと直行した。
病院に着いてすぐ父の病室へ。
酸素マスクをつけられて、めちゃくちゃ苦しそうに呼吸をしている父の姿を見て、目を背けたくなった。
側にいた叔父さんの目が潤んでいたのを覚えている。
その場にいた親族皆が、最悪の事態を覚悟しなくてはならない状況。医者からもそう伝えられていた。
僕たちには殆ど出来ることはなかった。
喉が渇いたと訴える父の口に水分補給用させてあげることぐらい。
程なくして、この病院ではこれ以上の処置が出来ないので、さらに大きい病院へ搬送して緊急手術が行われるということに。
母が父と救急車に乗り込み直接大病院へ。僕と弟は車で一旦実家に戻り、必要な準備をして病院へ向かうこととなった。
その車の中で、もしもの事があったらどうする…という話を弟とした。
手術、そして入院生活のはじまり
大病院に運ばれた父は、すぐに手術を受けることに。
何時間だったか、深夜の待合室で僕と母と弟は祈る気持ちで待った。
そして手術は終わり、ICUに居る父と面会することにはなったが、術後の父に意識はない。
一命は取り留めたとのことで取り敢えず安心はしたが、状態が良くないであろうことは素人目に見てもわかる。
ICUでの面会は数時間おきに数分程度。
面会できる時間までは何も出来るわけではないが、いつ父の意識が戻るかも分からないので、その数分のために数時間を僕と母と弟で待つ。
病院から自宅までは車で1時間強。
いざという時にその距離は遠すぎる。
何回目の面談だったか、父の意識が戻った。
とりあえずは一安心。一旦家族で帰宅はしたものの、まだ父はICUにいる。いつ何があってもおかしくはない状況。
しばらくの間、特に母は、病院で待つ時間が多くなった。
普段喧嘩したり嫌ったりしても、なんだかんだ言って母は父のことを想っているのだなぁとその時改めて感じた。
それから数日だったか、どのぐらいの時間が経ったのかははっきり覚えてはいないが、父が病室に移れることになった。
僕たち家族そこでようやく一息つける感じではあったが、誰よりも父本人が一番不安だっただろうから安心しただろうと思う。今思えば父は、虫歯だらけのくせに歯医者に行くのも嫌がる病院嫌いだったんだ。
一般病室に移動してほどなく、色々な検査がされることになった。
その時の父は「嫌やわぁ。」とボヤいていた。
検査の時も、僕たち家族は病院に見舞いに来ていた。
検査の予定の時刻を過ぎても先生の都合で待たされたりして、なんとも言えない空気の中その時を過ごしていた。
予定より少し遅れて検査が始まり、看護師さんに連れられて父は自分の足で歩いて診察室へ向かった。
それからまた少しの時間のあと、検査を終えて父が戻って来た。
採血とか、MRIとか、どんな検査だったのかは知らないが、父には「お疲れ様。」と言ってあげるしかなかった。
そして、看護師さんが
「後ほど先生の方から説明があります。」とのことで、父と母と僕で、先生の話を聞くことになった。
宣告
「癌です」
肺癌が原因で今回の心タンポナーデが引き起こされた。
つまりはそういうお話だった。
かなり進行していて手術でどうこうできる段階ではないという。いわゆる余命宣告もされた。
肺癌。ステージ4。
父は昔からヘビースモーカーだったし、お酒も好きで膵臓やら肝臓やらを悪くして入院したこともあった。
それでも煙草もお酒も辞めようとしなかったから、家族と揉めたり、家庭崩壊の危機も何度もあった。
「お酒やタバコが原因で病気になっても絶対に助けてやらんぞ。」と思った事もあったし、実際父にそう言い放ったこともあった。
だからある程度の覚悟はしていた。しかし実際にその事実を突きつけられると、言葉を失う。
これから先にどういう治療をしていくかとか、いろんな薬を段階的に使っていくとか、そういう話をされた。
先生からの話を終えて病室に戻り、重々しい空気の中で父が
「癌やて…」
と言った。
かける言葉が見つからなくて、僕は
「そうやな…。でもまぁ、覚悟はしてたやろ?」
と言ったことを覚えている。
母は父に
「頑張ろう。」
と、前向きな言葉をかけていたが、心中はどんな気持ちだっただろうか。
そのときの父自身も、どんな気持ちでいただろうか。
闘病生活
それからは病気との闘いの日々が続いた。
とは言っても実家から離れて暮らしている僕はたまにしか帰れなかったので、母や弟のほうがずっと多くの時間を父と過ごした。
特に母は毎日のように父が入院している病院まで通い看病していた。
闘病生活。手術が行われたり色々な薬を試したりで、父の身体はどんどん痩せ細り、髪の毛も抜け落ちていた。
それでも当初思っていたよりも状況は悪くなく、退院できることになった。
父は基本引きこもり気質だったので、数ヶ月ぶりに帰宅できたことは本当に嬉しかったことだろう。
ウチは自営業の鉄工所。仕事にこそ復帰できなかったが、家でのんびり過ごしたり、母と買い物に出かける事もしばしばあったようだ。
父は元々あまり家族サービスをするタイプではなかった。
一緒に出かけようよと誘っても面倒くさがって、「お前らだけで行ってこいよ。」という事が多かった。
しかし病気を患った事によってそれが少しずつ変わり、時には父の方から出掛けようと誘ってくるようにもなった。
奇しくも父が病気を患ったことで家族の絆が深まり、繋がりを再確認できることが多くなった。
後に弟から聞いた話だが、弟自身、父が病院になってからはほぼ全ての休日を父との時間に充てたらしい。
看病したり、遊びに出かけたり、出来るだけ多くの時間を父と共有して過ごしたという。何かあった時のために飲酒も出来るだけ控えて。
長男である僕は、離れて暮らして自分のための時間を過ごすことがほとんどだったというのに…。そういう意味では弟を人生で一番リスペクトしたエピソードだ。
病人なのに健康的になっていく
父は当然だが酒もタバコもキッパリ辞めた。
僕が物心ついた頃からあれだけ何を言っても辞めなかったモノを。
特にお酒については、肝臓や膵臓に深刻な不調をきたすレベルの問題を抱えていたのに辞めようとしなかった。
お酒を巡って家族間でトラブルが起きる事もよくあって、父は隠れて飲酒する習慣があったようだ。
家族全員が父の飲酒には敏感になっていたし、隠れて飲んだところでそんなことはすぐ分かるのに…呆れて諦めていた部分もあったが…。
隠れて飲んでを繰り返していた父の体調があまり良くないのは普段からよく見ていた。体調を崩して仕事を休むようなこともしばしばあった。
皮肉にも、そんな状態だった父がお酒を飲まなくなったことで、病人なのにある意味元気で健全な生活を取り戻していた。
毎朝決まった時間に起きて朝食を摂り、日中に活動して夜もきちんと眠りに就く。
病人でありながら規則正しい生活を送れることで、そういう面では母も気持ち良い生活が出来ていたのではないかと思う。
機械音痴な父が
元々の父はパソコンやスマホなどはロクに扱えないアナログ人間で、パソコンやらテクノロジーを毛嫌いしているタイプの人間だった。
それがこの度家の中で暇を持て余すことが増えたおかげで、パソコンでネットサーフィンをするようになっていた。(弟が不要なノートPCを改造して爆速PCにして父に与えたらしい。)
特に父はAKB48が好き(指原推し)で、YouTubeで動画を見漁っていた。
「この娘らが頑張ってるのを見てたら涙が出てくるんや…。」と言っていたのが印象に残っている。
ケータイでネットを見たりゲームをしたりもしていたようで、ある時ケータイの操作方法が分からないから教えて欲しいというような相談をされたことがあった。
そんなに難しいことでもなかったので僕は、軽く引き受けてチョチョイのチョイで解決して済ませようとした。
そしてその過程でブックマークを開くことがあった。
そこには多数のエロサイトばかりが登録されていた。
僕はそっとブラウザを閉じた。
転移
病人ながらもそれなりに元気に過ごしていた父だったが、それでも病魔は刻々と父の身体を蝕んでいた。
僕は離れて暮らしていたことで父の状態をよく知らないことが多かった。
知らない間にまた入院していたり退院したりを繰り返していた。
その間にも、胆管が詰まったとかで何度も手術を受けていたようだ。
抗癌剤治療の副作用で髪の毛が抜け落ちて薄くなっていたが、その効果があって肺の癌は小さくなっていたようだ。
髪の毛を気にして父はいつも家の中でも帽子を被るようになっていた。
骨に転移がないかどうかの検査もしたが、骨への転移は見られなかったらしい。
そして、脳への転移がないかどうかのMRI検査。その結果が最悪だった。
複数の転移が見つかった。
僕はその検査については同席していなかったが、その結果を聞いた時の父自身や母の気持ちを思うと言葉が出ない。
その頃からだっただろうか、だんだんと父の身体の自由がきかなくなってきた。
立って歩くのにも掴まり立ちをしないといけなくなった。
抗癌剤も徐々に強いものを使わなければならなくなり、それには相応のリスクも覚悟しなければならない。
ある時に、次の薬が効くかどうかを確認するために、開頭手術を受ける事になった。
文字通り、頭を切り開いて頭蓋骨に穴を開けて脳を調べるというものだ。聞くだけで恐ろしい…
しかしその手術は癌を取り除くとか、直接癌を治療するのではなく、あくまでも薬が効くかを確かめるための手術…だそうだ。
そんな怖い手術を受けても、もはや切除できるような状態ではないのだと思うと、本当に辛くて悲しかった。
何より父本人が辛かっただろう。
手術の詳細は素人の僕たちにはよくわからない。それでもかなりの大手術だろうとは想像できる。
他のどこでもない、人体の中で最もデリケートな部分である脳みそを露出させて直接触れるのだ。
恐らくはミリ単位の精密で慎重な施術。ちょっと手元が狂って傷つけてしまえば生命が終わってしまうかもしれない。
執刀医の先生も相当なプレッシャーではないだろうか。
絶対に僕には出来ないと思う。技術的にはもちろんだが、精神面でも。感服する。
手術は無事に終わった。
父にしてみれば、全身麻酔をされたと思ったら目覚めて気付いたら頭が縫い合わせられている状態だ。
(その時の頭部の写真を母からもらったが、なんというか…グロ画像です本当にありがとうございました。
切開の跡がでっかいホッチキスで閉じられているような。フランケンシュタインというか。)
術後麻酔が切れてからはめちゃくちゃ痛かっただろうな…。想像するだけで恐ろしい。
最後の退院
徐々に父の身体は不自由になっていく。
最初のうちは多少歩くのが辛くても、一人でトイレにぐらいは行けるし、調子が良ければ出掛けることも出来た。
僕が実家に帰った時、一緒にパチンコに行ったりもできたし、車の運転も出来ていた。
それがある時にはもう、トイレに立つのもやっとという感じになっていて、肩を貸してあげないと家の中でも動けないほどになっていた。
その頃には家の玄関に車椅子が置かれていた。
出掛けるにも通院するにも、車椅子を押してもらわないと自分では自由に動けないのだ。
病院のエレベーター内で
「お前がおらな生きていかれへんわ。」と母にこぼしていた父。
他の人も乗っているのに気付かずに言っていたようで、母はちょっと恥ずかしかったんだとか。
それから程なく、何度めの入院だっただろうか。
その頃にはもう父の手足は驚くほど痩せ細ってしまっていた。
元々自営業で鉄工所で働いていた父は仕事柄、人並みよりはしっかり筋肉のついた体つきだった。
子供の頃から当たり前に見てきた父とのギャップに驚く。
こんなにも本来の骨格はか細く弱々しいものなのかと。
脳の腫瘍の問題もあり、時折自分の意思に反して手足が痙攣することもあったらしい。
ついに父は自分の力で起き上がることすら出来なくなった。
最後の入院、そして最後の退院。
退院して家に帰ってこれた事に、父は涙を流したとか。
しかし、その頃の状態は決して良くはない。
父が退院したとのことで僕が実家に帰ると、大きな介護用ベッドが設置されていた。
お世辞にも広いとは言えない、狭い実家のリビングにギリギリ収まるようなサイズのベッドに父が横たわっていて、看護師さんが2名、訪問看護に来ていた。
父はもはや立ち上がるどころか、寝返りすら打てなくなっていた。
食事も、排泄も、なにも一人では出来ない。
唾や痰を吐き出すこともできないので、定期的に吸引器で吸い取る必要がある。
その様子を見ているのが本当に辛かった。
機械の管を鼻の穴から通して吸引するのだけど、苦しくて嘔吐くし、反射的に身体が痙攣する。
これを1日に数回行わないといけない。
今回は看護師さんがやってくれてはいるが、今後は家族がやっていかなければならない。
やる方もやられる方も、辛すぎる。
その日、父とは一言も会話を交わすことも出来ず仕舞いだった。言葉を発することすらままならない状況だった。
ただベッドの上でじっと時計を見つめている父の顔をいまだに忘れられない。
次の日も僕は仕事があるので実家から帰った。
「じゃあ、帰るわな。」
という言葉に返事はなかったが、目は合った。
と思う。
最後のとき
父の命はもうそう長くは続かない。
理解はしていた。
長男として、その時に近くで寄り添っているべきだったとは思う。父のためでもあるが、それまでずっと実家で父の生活を支えてくれていた母や弟のためにも。
それは未だに後悔している。
最後に父の顔を見てから数日後の仕事中、母からの着信があった。
「お父さん、もう今夜までもつかどうかわからへん。」
という内容。
覚悟はしていたから意外と冷静でいられたので、仕事はいつも通りに夜までこなした。
そしてその夜、父は亡くなった。
亡くなる瞬間を見ていなかった僕は冷静だったが、それを目の当たりにしていた母と弟が正気でいられたとは思えない。
弟は必死に人工呼吸や心臓マッサージを試みたらしい。
それも虚しく、父の命は終わりを迎えた。
次の日の早朝、僕は実家に帰った。
もう動かなくなった父の姿。
その表情は穏やかで、苦痛に歪んでいなかったことが救いだった。
生前の父はいつもサングラスを掛けていた。
仕事で溶接をするので、その光から目を守る為に掛けていたはずだが、その延長線上で休日でもいつもサングラスを掛けていた。
そんなトレードマークのサングラスを父の亡骸に掛けてあげると、いつもと変わらない父の顔がそこにあって、すぐに起き上がってきそうな気がして弟と笑い合った。
葬式の段取りは母がもう決めていて、近所の葬儀場で家族葬という形で、あまり多くの人には知らせずに行うということだった。
元々あまり人付き合いが多くない父だったが、昔からの友人のおじさんたちは葬儀に駆けつけてくれた。僕も小さい頃からよく遊んでもらったり、お世話になった人たち。まさかこんな形で久しぶりに挨拶する事になるとは思っていなかったな。
葬儀から火葬場までのことはあまりはっきり覚えていないのはなぜだろう。
火葬場で父の棺桶がいよいよ燃やされるというときに、母が「嫌や!」と言って取り乱していたのを見て、結局なんだかんだ言っても母は父のことを愛していたんだなと感じ取れた。
たくさん喧嘩して揉めることも多かったが、長年一緒に過ごして来れたのは結局心の底ではしっかり愛しあっていてくれたんだな、と思うと涙が込み上げる。
火葬が終わりお骨上げ。
骨だけになってしまった父の頭蓋骨あたりに金属片があった。
頭を切開した手術で埋め込まれていたものだ。
骨だけになってしまえば、たったこれだけの小さな金属。たったこれだけのために、辛い思いのなか大掛かりな手術をして、闘って。
悲しさとともに、なんとも言えない不思議な気持ちになった。
2018年4月。
当初の余命宣告より一年半も長く生きていてくれた。
闘病生活の甲斐あって、最終的に肺の癌はほとんど小さくなって無くなっていたらしい。
ただ、脳に転移してしまった事でそこから腫瘍が大きくなり、最終的に命を落とす事になってしまった。
脳転移さえしなければ…とは思うけれど、それはもうどうしようもないことで…。
おわりに
父が亡くなる1ヶ月ほど前、まだ父とは多少会話が出来たころ、僕には彼女が出来た。
そう、今の嫁ちゃんである。
11歳も年下の子っていうのも何となく照れくさくて、父には何も報告出来ずじまいだったな。
あの時、もう先が長くないことは感じていたから、「彼女出来たから、今度連れて来るわな。」って言えばよかったと今更思うことがある。
紹介しときたかったな…と少し後悔する。
父が亡くなって1年後、2019年の4月、息子が生まれた。
父にしてみれば初孫だったはずで、子供が好きだった父の事だからめちゃくちゃ可愛がってくれただろうなと思う。
僕の頭の中には父の記憶がしっかりとあって、まだ実家に帰れば普通に換気扇の下でタバコ吸ってるんじゃないかと思うくらい。
なのに息子はそんなじぃじの姿を見たこともないし、この子が生まれた時からじぃじがいないのが当たり前なんだなぁと思うと不思議な感覚になる。
そんな息子ももう3歳。
寝ながらオムツの中に手を突っ込んでちんちん弄ってばっかり。公園で遊んでいて同い年ぐらいの女の子を見かけると追いかけて絡みに行く。
こいつ…まさか…ね。
血はしっかりと受け継がれているようだ。
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